Artists

カミーユ・ピサロ

1830年 カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれる
1842年 パリへ留学
パリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーで学んだ、パリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーで学んだ。学生時代にピサロはフランス美術の巨匠絵画の鑑賞力を身につけた
1847年 故郷のセント・トーマス島に戻る
1850年 フリッツ・メルビューがセント・トーマス島へ移住してくると、ピサロは彼から影響を受け本格的に画家を志し、メルビューから絵画を学ぶ
1855年 パリに渡る
ちょうどこの時開かれていたパリ万国博覧会では、ピサロは、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジャン=フランソワ・ミレーといったバルビゾン派の画家や、展覧会の審査に抗議して個展を開いていたギュスターヴ・クールベの作品が展示されており、ピサロはコローに会いに行きアドバイスを求めている
リッツ・メルビューの兄アントン・メルビューの助手として働くようになる
エコール・デ・ボザールやアカデミー・シュイスなど、さまざまな授業に登録して、巨匠たちから直接絵を学んだ
1859年 サロンに《モンモランシーの風景》を初めて出品し、初入選
1861年 パリのアカデミー・シュイスに通いそこでモネやセザンヌと出会う
1863年 サロンには落選し、エドゥアール・マネの『草上の昼食』をめぐるスキャンダルで有名になる
落選展に、ピサロも3点の風景画を出展した
この頃、モネを通じて、シャルル・グレールの画塾に集まっていたアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールと知り合った
1869年 パリ郊外のルーヴシエンヌに移る(〜1872年)
同じ頃、モネ、シスレー、ルノワールもルーヴシエンヌや近くのブージヴァルに住んでおり、ピサロは彼らと一緒に戸外で制作、この頃からコロー風の画風から変化し、色調が明るくなり、絵具の塗り方は薄くなった
1870年 サロンに『秋』と『風景』を出品し、入選、ピサロにとって最後のサロンとなる
普仏戦争を避けてロンドンへ、そこで印象派を見出した画商デュラン=リュエルと知り合う
1872年 ポントワーズのエルミタージュ地区に移る(〜1882年)
ポントワーズでは、ピサロの周辺にポール・ゴーギャン、セザンヌといった画家たちが集まり、中でも、ピサロはセザンヌの才能を認め、イーゼルを並べて制作するうちに互いに影響しあう
1873年 モネとピサロを中心にグループ展の構想
1874年 第1回印象派展に開催、参加、以降8回まですべてに参加する
1882年 第7回印象派展に参加
1880年代初頭から、ピサロは従来の風景画家から、人物画家へと移行しており、第7回展には、戸外の人物画を中心とする36点を出品した
1884年 エプト川沿いの村エラニーに移り住み、その後生涯ここに住む
1885年 シニャックに出会い、ジョルジュ=スーラを紹介され、スーラと絵画技法について議論し新印象派の流れに参加
1886年 第8回最後の印象派展に参加
1890年 テオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)によって個展を開催
1892年 デュラン=リュエル画廊で個展を開いた
1896年 リュクサンブール美術館に作品が収められる
1903年 パリにて死去